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小説「永遠のラブソング」

「銀色のリフレイン」の2世代後のお話
参考:水上澄子「銀色のリフレイン」

by 北原 優 [2000.9.18]

[ 登場人物 | 本文 ]


登場人物



 下町の古い商店街の、それでも少し大きめの書店のショーウィンドゥに、夭折した作家の生誕七十年の記念フェアーを記した、ポスターが貼ってある。
 その書店と通りを挟んで左斜め向かいにある、今にも潰れそうな喫茶店のママがそれに目を止めた。
 それが、彼と彼女の恋物語の最終楽章の序章となった。
 それからきっかり一週間後、俺はその書店の前に立つことになる。

 その三文記事を俺が信じた訳ではない。
 だから、俺はじいさんが生涯勝てなかった相手に逢いたいと思った訳じゃないし、柄にもなくばあちゃん孝行をしようと思った訳でもない。
 俺は、ただ旦那が死んだ悲しみをもっと深めるだけにしかならない、ばあちゃんのピアノから逃げ出したかっただけだし、恋人が死んだように悲嘆にくれる、祥子ばあさんを見たくなかっただけだ。
 冬の空は、どんよりと曇っていて、今にも落ちてきそうに低かった。
「成程、よく似てる」
 まあ、実の孫だから似ていて当然なのだが。
 俺は、田崎澄夫の優しげに微笑む遺影を見つめ、そう思う。
 実際、それは仏前に飾られた田崎澄夫の遺影を、出版社がポスターに使用したものである。
 田崎澄夫は、病弱が故に先の戦争にも行かずに生き残ったが、戦後の飛躍的な我が国の医療技術の発展には間に合わず、妻と幼い息子を残して葬くなった。
 享年、三十四歳だった。
 俺は以上の事が簡潔な文章で書かれているポスターから目を外し、書店のドアを開けた。
「ねえ、あの店だよね」
 平日の午前中でこんな天気のため、暇を持て余している店番の女の子に、俺は声を掛ける。
「不破秀一の亡霊がピアノを弾いてる店って」
「亡霊じゃありませんよ。マスター、生きてたんですから」
 ついでのように出されたクラッシック専門誌の新刊と、ロックでもやっていそうな風貌の俺を見比べて、少なからず驚いたように彼女が言った。
 過去形の彼女の言葉は俺の耳を素通りした。
「でも不破秀一は戦争で死んだんだろ。『ピアノ協奏曲変ロ長調』の総譜だけを恋人に残して」
 俺の知識にクラシック専門誌との関係を納得したように頷くと、娘は言った。
 レジの女の子は何やら誤解しているが、俺はれっきとした音大の指揮科の一年である。ちなみにフルネームは鳩山正樹という。
 だが、俺が不破秀一に関して詳しい理由は別にある。
「1200円です」と事務的に値段を告げた娘は、口調を変えて俺に言った。「でも、偽者ね。不破秀一って、天才ピアニストだったんでしょう。マスターは、あの曲しか弾けなかったんだもの」
「俺だって、信じちゃいないさ。只の物見遊山。なのにあの店さあ、臨時休業なんだよな」
 娘は事もなげに頷いた。
「ああ、旅行よ。ほら、あのポスター。田崎澄夫の故郷に行ったわ。前にあたしが、出版社に電話してね、あそこのママに住所を教えてあげたことがあるの」
「北里に? 何てこった、入れ違いだ」
 じいさんの遺言で親友の眠る丘に遺骨を埋めるため、俺は今朝まで北里にいたのだ。
 俺の傷心の様子に少しは同情したのか、娘は明るい口調でこう付け加えた。「ああでも、そろそろ帰ってくると思うわ。一週間くらいだって言ってたし、今日で出発してちょうど一週間だから」
 親切なレジの女の子のために、読みもしない週刊誌をお釣りの300円で買い、俺は礼を告げて店を出た。
 外では、思った通りに空が泣き出していて、霙を降らせていた。
 泣きたいのはこっちの方だ。
 ほんと、踏んだり蹴ったりって言うのはこういうことを言うらしい。
 ホテルのベッドで買ってきた夕刊をめくっていた俺は、突然とんでもない記事を見つけた。
 そういえばさっき書店の娘も、『マスターは生きていた』とか言ってた気がする。
 すぐにホテルから外線をつないで、北里にいる音大の悪友に電話をする。
 十分ほどの言い争いの果てに、俺は一方的に受話器を置いた。フロントに連絡し、ホテルの宿泊を今晩だけにした俺は、翌朝、北里行きの便に飛び乗った。
 昨日の霙が雪に変わった悪天候でのフライトで、北里行きのエアプレーンは、俺の心の中のように大きく機体を揺らしていた。

「正樹、どうしてもやるのか」
 不破康夫の孫で不破秀一の再来と評される天才ピアニスト不破隆志が言った。
 俺が不破家の事情に詳しいのは、何も俺が隆志と友情を結んでいるからではない。
 俺のじいさんが、不破秀一の生涯を通してのライバルだったからだ。
 お蔭で俺は、田崎澄夫こと本名を不破康夫という文豪の直筆サイン付きの詩集を、じいさんの形見として受け取る嵌めになった。
 同じ名字が並ぶのは、不破康夫と不破秀一が実の兄弟だからである。
 もっとも、康夫は父親が屋敷の小間使いに手を出して生ませたとかで、半分だけしか血の繋がりはない。
 そのお蔭で不遇の半生を送った彼は、神の皮肉か采配かで、生まれつきの心臓疾患で二十歳まで持たないと宣告されていたのが幸いし、徴兵制度にも引っかからずに、三十半ばにして天寿を全うした。
 兄は天才ピアニストだったにも拘らず、親からの事業を継ぐために音楽を断念、健康体故に戦争に行き、婚約こそしていなかったもの将来を誓った恋人に、たった一曲しか残せずに戦死。
 神様が意地悪だったのは、この二人が成さぬ中でありながらも、大変仲のよい兄弟だったことでよくわかる。
「死んだ人になるのも嫌だが、祥子ばあちゃんを騙すのはもっとやだ」
「求婚者を二人とも失くした、森祥子女史を慰めるためだ」
 俺は昂然とそう言い放った。
 『ピアノ協奏曲変ロ長調』は、終戦後に女流ピアニストとしてそれなりの活躍をした森祥子女史に捧げられた曲だ。
 彼女が不破秀一の生涯で唯一無二の恋人である。
 俺の祖父さんは帝都交響楽団の名誉指揮者だった鳩山九郎だ。兄弟で九番目だからではなく、源九郎義経たれと望む親心でついた名だという。
 鳩山九郎は、不破秀一にピアノでも指揮でもそしても恋でも負けたと聞いた。
 戦前に行われたピアノコンクールでも、祥子との恋でも確かに負けたが、指揮に関してはじいさんの不戦勝だった。
 秀一は親の事業を引き継ぐため、指揮者としての一生はもちろん、リストに匹敵する程の天才ピアニストとまで言われた名声とそして、ピアノまでをも捨てたのだから。
「俺じゃしょうがない。指揮はともかくピアノはお前の方が上だからな」
 大叔父の血が現れたのか、不破隆志はわずか一九歳で、世界で十指に数えられる程のピアニストになった。
 俺は祖父の七光で、音大のオーケストラの指揮を任されてる。
 たいした違いだ。
「俺が『ピアノ協奏曲変ロ長調』を弾いても意味がないんだ。それにお前は音大の演劇部のホープだろう」
「メイク道具は、東京だ」
「そこを何とかするのが、不破秀一の子孫の役目だろう」
「お前がそこまで、祥子ばあちゃんを慕っていたとは知らなかったな」
 今は一線を退き、近所の子ども達にバイエルを教えるのが唯一の趣味となった祥子女史に、死ぬ前にもう一度死んだはずの恋人と彼の弾くピアノに逢わせてやりたい、と言うのが俺の願いだった。
 俺はじいさんっ子だったせいで、現役時代の森祥子女史にピアノを教わり、少年時代をこの地で過ごしていた隆志とも知り合った。
 少しくらい、ばあちゃん孝行をしても罰は当たらないはずだ。
 そんな俺の気まぐれを見事にぶちこわしてくれたのが、東京の下町のたった一つのピアノ曲しか覚えていなかった、物静かなマスターの追悼記事だった。
 彼が三流週刊誌の記者が見つけてきた、死んだはずの不破秀一である。
 戦争で自分の名前も素姓も、それだけではなく、音楽家として致命的な左耳の聴力まで完全に失って戦地から生き残って帰ってきた男だ。
 もっとも彼が音大生だったとは、思えない。
 彼が弾けたのはたった一曲だけだったのだから。
 彼を拾ったのが、飲み屋の女だった今の喫茶店のママで、彼は彼女の店で無口で温厚なマスターを自分の第二の人生と思い定め、ママに付けられた名を自分の名として名乗っていた。
 彼が戦地から記憶や聴力と引き換えに持ち帰ったのが、不破秀一が恋人のピアノを思い余す事なく引き出したと言われ、たった一つの作品と世に認められた『ピアノ協奏曲変ロ長調』だ。
 クラシックなんか聞きそうにないママが、そのピアノ曲を知っていたとも思えなかった。
 戦争で記憶を失くした、或いはその振りをして、生きてきた人間は他にも大勢いる。戦争当時の戸籍なんか曖昧で、死んだはずの人間が生きていた何てのはざらだし、祥子の兄で秀一の親友だった男が見たのは、爆撃にも気づかずに一心にスコアを記していた彼の姿だけで、彼の死を確認した訳でもない。
 可能性だけの話なら幾らだって言える。
 だから、冒頭でも言った通り、不破秀一がそのマスターだと、俺が信じている訳じゃない。
「まあ、正樹がそこまで言うのは珍しいから、つき合ってやるけど」
 俺の喜びに釘を刺すように隆志は冷然と告げた。
「僕は失敗しても責任は取らないぜ」
 俺は頷いた。
 俺はただ、夫を失くした実の祖母と同じほどに、じいさんの死を悲しむ祥子ばあさんを慰めてやりたかっただけだ。
 ほんの気まぐれに。
 少なくとも俺はそう信じ込んでいた。
「ばれたら、俺が責任を取るよ」
 俺は断言した。
 俺は、隆志のピアノの音色が秀一の調べとよく似てる、と言うじいさんの言葉を鵜呑みにしていたから、この企てが失敗するなどとは思ってもいなかった。
 まして、それは恋人だった祥子女史も太鼓判を押していたのだから。
 窓の外では、彼女の弾くピアノのようだと秀一が称したという、淡く解けそうな雪が、くりかえしくりかえし降っていた。

 俺の父親は俺に音楽的才能を全部譲ったのかピアノ一つ満足に弾けなかった。
 それでもじいさんの性格は譲り受けていたらしく、『俺の経営に文句があるのなら、会社を辞めろ』を決め台詞に一代で楽器メーカーを起こし、日本でそれなりの地位にその会社をのしあげた男だ。
 ちなみに、じいさんの口癖は『俺の指揮に文句がある奴は出て行け』である。
 俺とは言えば、祖父の七光と言われるのに嫌気がさしていた。
 どんなに努力をしてもその一言で片付けられてしまえば、それが負け犬の遠吠えとわかっていても、傷つくものだ。
 立場は同じはずなのに、隆志にはそんな焦りはなかった。
 そりゃ、俺のじいさんの方が今では名が知れ渡っていて、たった一曲しか残さなかった薄幸の天才ピアニストの評判など足下にも及ばないが。
 きっとそれだけでは片付けられないぐらいのことは、俺にもわかる。
 協力してやるんだから。
 と、顔に似合わぬ強引さを出して、俺にメイク用具の調達をさせた男は、どこから見ても八十前の老人になって、おぼつかない手付きで鍵盤を追っている。
 窓の外には、穏やかな小春日和の空が広がっている。
 ここにいるのは、もう五十年以上も前に戦地で恋人を失くした老婆と俺達だけだ。
 森祥子女史は、俺のじいさんである鳩山九郎の死を見送って以来、すっかり老け込み、ベッドを新しい恋人にしてしまっていた。
 彼女は俺達の嘘にあっさり頷くと、初対面のはずの無口な男を自室に通した。
 穏やかな午後と、ピアノとお茶。
 ピアノの出来にはかなりの不満が残るだろうが、それがかっての恋人と噂される男だとしたら、舞台効果は満点のはずだ。
 俺は、時折目に浮かぶ追悼記事を無理やりかき消しながら、良心の痛みと戦っていた。
 流れているのは、『ピアノ協奏曲変ロ長調』のピアノアレンジ版だ。
 死さえ覚悟した、と死んでからだいぶたって届いた手紙に書かれてあったけれど、ならば、この曲は二度と逢えないかも知れない恋人のために書かれたわけだ。
 それにしては明るいメロディだ。
 愛が死さえも越えるなんて、俺には信じられないけれど。
 マスターが、いや、マスターに化けた不和隆志が、最後の鍵盤から指を放す。
 その余韻が消えるのを待って、祥子ばあさんが口を開いた。
「ありがとう。まあ君もたあちゃんも」
 祥子ばあさんは俺のことをまあ君、隆志のことをたあちゃんと呼んでいた。「一つだけ聞かせて、あの人は死んだのね」
 彼女の言葉に、マスターに化けた隆志は深く頷いた。

「全く人が悪いんだから。最初から気づいてたんでしょう?」
 あっさり白髪の鬘を取った隆志はそう言って、ふくれ顔になった。
「あなた達にそう言えて? せっかくの好意を台無しにすることはないと思って」
 そう祥子ばあさんは言った後、もう一度深々と頭を下げた。
「ごめんな。本当は彼を連れてくるつもりだったけど」
 俺の言葉に彼女は首を横に振り、そして言った。
「少し疲れたわ。ベッドに寝るから、手を貸してちょうだい」
 俺達は二人で、祥子ばあさんをベッドに寝かせた。
「その手紙を開けて。多分入っているのは、テープだと思うけれど」
 言われたままに隆志はグランドピアノの上に置かれていた手紙を取り、差出人の名を見て驚く。
「僕が読んでいいの」
 震える手で、俺に封筒の裏を見せながら彼は聞いた。
「一人で開けるのが怖かったから、あなた達がお見舞に来るのを待っていたの」
 差出人はあの喫茶店のママだった。
 隆志は、覚悟を決めて封筒を開けた。
 中には安物の六十分のカセットテープと、達筆な女文字で書かれた手紙が入っていた。
「読むよ。『拝啓。森祥子様。突然にこのような手紙を出すことをお許しください。
 もしかしたらご存じかも知れませんが、私は不和秀一さんかも知れないと言われた男の家内でございます。家内といっても何せ、どこの誰かも知れぬ男のこと、ついに籍を入れずじまいでございました。
 亭主とよく面差しが似た、田崎澄夫さんのポスターを見た時、ふと、その地を訪ねてみようかと思い立ちました。
 そこにあなたがいるのは、汽車の中で読んだ週刊誌で初めて知りました。
 それであの人が、本当に不和秀一だと信じた訳ではありませんが、あなたには逢わせずに、田崎澄夫の生家や、丘の上の一本の樫の木、あの人が昔、その地で見たかもしれないあなた以外の様々な物を見て、東京に戻ることにしました。
 幸いというのか、不幸にもというのかあの人は、記憶を戻したりはしませんでした。
 けれど、懐かしそうに目を細めて見ていました。
 昔の日本にはあのような長閑な景色は幾らでもあったのだと、自分に言い聞かせて、私はあの人を連れて東京に戻りました。
 あの人が倒れたのは東京駅の改札を過ぎたところでした。
 あの人が二度と戻らないと知った時、一度だけでもあなたに逢わせてあげればよかったと思いました。
 せめてものお詫びに、このテープを同封します。
 残酷なようですが、これでもう誰かにあの人を取られる心配をしなくて済むのだと思っています。
 不躾な手紙になりましたことを、心よりお詫び申し上げます。敬具』
 ……おばあちゃん、大丈夫?」
 青ざめた顔をベッドに横たえながらも、彼女は頷いた。
「テープ、聞く? やめておく?」
 俺は、テープを手で弄びながらそう訊ねた。
「いいから、かけてちょうだい」
 俺は頷いて、安物の六十分テープを、商売柄最高級品ばかりが揃えられたオーデオカセットデッキにセットした。
 市販のステレオカセットレコーダで生録音したのだろう。
 耳障りのするノイズの中で、たどたとしい、けれど精確なキーを刻んだ『ピアノ協奏曲変ロ長調』が流れ出した。

 それは、本物のというか、戦争に行く前の不和秀一の演奏を聞いたものならば誰もが、耳を背けたくなる程ひどい演奏だった。
 間違えないのがやっとだという演奏で、何も知らずに聞かせた人間に、これが完全な暗譜で弾かれたものだと言っても信じられないだろう。
 でも、これがこれ以上はないという暗譜だというのは、マスターの演奏を聞いたことがある人間なら、誰でも知っていた。
 五線紙の読み方さえも忘れてしまった天才ピアニストが、ただ一つだけ覚えていた曲がこれだ。
 それ故か、素人の演奏だと言い切るには、込められている執念が只物ではなかった。
「あの人の、秀一さんのピアノよ」
 遺体も荼毘に付されて、もう実物を見て彼だと証明することもできないのに、彼を一番愛したピアニストは、そう断言した。
「逢いたかった?」
 言わずもがなのことを、俺は訊いた。
「逢いたくなかったと言えば嘘になるわ。でも、親切な、それとも不親切なというかしらね、記者が感動の対面をしないかと持ちかけてきた時も断わったわ」
 それには頷ける。
 彼らは興味本位な記事で、祥子と秀一の綺麗な想い出まで壊してしまうだろう。
「死体が、戦地に埋められてここに戻らなかった時から、私はどこかで彼が生きているのじゃないかと思っていたわ。戦争が終わっても、あの人は帰ってこなかったけれど、あの人の想い出だけで、私はピアノを続けられたの」
 祥子女史はそう言って寂しそうに笑った。
「生きてるとしたら、あの人が名前も家も捨てて、何処かで自由にピアノを弾いているのだと思っていた。あの人が私を捨てて、ピアノを取ったのだとしても、同じことをかって私がしたのだから、それでもよかった」
 俺達は思い思いの場所に立って、独白とも言える彼女の告白を聞いていた。「生きてここに帰っていたら、あの人は人手に渡った会社を取り戻す為に奔走して、ピアノを捨ててしまったでしょう」
 不和家はかってこの辺り一体の地主だった。今では田崎澄夫の印税と、不和秀一名義で出された『ピアノ協奏曲変ロ長調』のわずかな印税で、田崎澄夫こと不破康夫が取り戻した、彼らが愛した樫の木の丘を含む不和家の屋敷だけを維持している状態だ。
「私や九郎さんが幾ら止めても。そういう人よ。そんなあの人を二度と見たくなかったの」
「おばあちゃん」
「だから、あの人が戻りたくても戻れなかったとわかって、私は喜んでるの。あの人が、記憶を引き換えにしてまで、この曲を覚えていたことよりも」
 そう言って、彼女は嗚咽を漏らした。
「嘘よ。私は怖かったのよ。私を覚えていない、あの人に逢うのが怖かった。あの人の想い出が壊れてしまうのが怖かった」
「もう、休んだ方がいい。薬も飲まなきゃね」
 動けないでいる俺をよそに、隆志は祥子ばあさんの掛け布団を直すと、水を取りに部屋を出た。
「じゃあ、俺は余計なことをしたんだ」
「いいのよ。……まあ君、もう一度、あの人のピアノを聞かせて」
 俺は頷いてテープを巻き戻した。
 耳障りなノイズの間から聞こえる、永遠のラブソングを聴きながら、静かに瞳を閉じて恋人のメロディに聴き入る老婦人を、俺はそっと見守った。
 俺には自分の記憶と引き換えにしても覚えておきたいメロディはない。
 そこまで大事なものが本当にあるのかもわからない。
 そうまで大切な想いがあることさえ信じていない。
 でもそんな俺にもこのメロディが伝えたい想いが本物だということはわかる。
 俺は、このまま指揮を、いや、音楽さえ続けるかどうか迷っていた。
 俺の聴いているのが、あの日、じいさんを喪くした悲しみを更に深める、悲鳴みたいに叩きつけたばあちゃんのピアノと、同じ想いで弾いているのかどうかさえ知らない。
 あのマスターが、祥子ばあさんが信じた通りに不和秀一だとも信じていない。
 恋人を置き去りにして、戦争へ行く気持ちは知りたくもなかったし、心から愛した恋人を失った覚えもない。
 そんな人間に巡り合えたらいいな、と思うだけだ。
 俺はふいに、祥子ばあさんの呼吸が、弱々しくなっていることに気づき、声をかけた。
「おい、祥子ばあさん。大丈夫か」
「祥子!」
 飛びこんできた人影を見て俺は息を飲んだ。
「ばあちゃん、東京に帰ったんじゃ」
「そんなことは後よ。すぐに救急車を呼んで」
 自分の祖母の声に俺は部屋を出て行きかけた。
「いいの。それよりたあちゃんを呼んで」
 弱々しい声で、けれどきっぱりと祥子女史は言った。
「僕ならここです」
 遅くなったのはついでにメイクを取っていたのだろう。
 服も着替えて、いつもの不和隆志になって奴は立っていた。
「あの人の曲を弾いてくれるわね。今度はあなたの演奏で」
「わかりました。でもその前に、この薬を飲んでください」
「病人を苛める気?」
「もうしませんよ」
 森祥子が実の孫のように可愛がっていた青年は、彼女よりも更にきっぱりと言い放った。
「そんな顔をしないで、純」
 鳩山純子。
 鳩山九郎の妻であり、森祥子の音大時代からの親友が何か言いかけるのを、彼女は首を振る仕草だけでとめた。
「今度こそあの人に逢えるのだから。ずっとあの人を独占していた人がいない場所で」
 女は時にとても残酷になる。
 あの手紙もそうだけれど。
「記憶も聴力も失っていないあの人に逢って、誰にも邪魔されずに連弾ができるのよ。素敵じゃない」
「みんなあたしを残してく」
 泣き顔のばあさんに、祥子は笑う。
「莫迦を言わないで。私が見れなかった、九郎さんと秀一さんの共演をあなたは見れるのよ。彼らの孫達の素晴らしい共演を」
「あなただって」
「だめよ。あの人は私だけのものになるの。たとえ九郎さんでも渡さない」
 負けだな。
 そう俺は思う。
 ここまで言われて、俺が指揮を辞める訳にはいかない。
「薬、飲みましたね」
 医者よりも厳しい声で隆志は言った。
 祥子女史は、薬を飲み下し頷いた。
「じゃあ、弾きますよ」
 天才と世間で噂するピアニストは、今度こそ本領を発揮して、ピアノを弾き始めた。
 薬が気休めにしかならないと、隆志はもちろん祥子女史本人でさえわかっているだろうに。
 綺麗なトレモノ。
 優しい、繊細すぎる旋律。
 けれど、何か足りない。
 それが祥子女史へ対する想いであると、奴が一番わかっているはずだ。
 俺は、隆志が何故、マスターに化けることを嫌がったか初めてわかった。
 どんなに似せて弾いても、根底に流れる想いだけはどうしようもない。
 恋人のようには祥子ばあさんを愛せない。
 たとえ、その想いが同じ深さであっても、孫が祖母に与える愛と、恋人に対するそれは違うものだ。
「ありがとう」
 そう言って森祥子女史は、眠るように息を引き取った。
 隆志のピアノに何を見たのか、その死に顔は至福の微笑みで満たされていた。

 我を忘れて泣きじゃくる祖母を残して、俺達は部屋を出た。
「莫迦なことをしたな」
「させたなだろう」
 俺は静かに首を振った。
 最終的に同意した奴の責任までかぶる気はない。
「いいんじゃないかな」
 静かに隆志は言った。
「結果的には、あの人の夢を壊さないですんだんだから。まあ君には珍しいほどのおばあちゃん孝行だったし、臨終にも立ち合えた」
 俺は自分の分の紅茶を入れて、ふと相棒に尋ねる。
「お前も飲むか」
「一人で飲む気だったのか」
 こういう奴だ。
 隆志は俺が入れた紅茶をうまそうに飲みながら言った。
「指揮を続けるんだろう」
「お前はな。嫌とはいえない状況をわかっていて」
「決めるのはお前だろう」
 しれっとした表情で、隆志は笑う。
「そうよ。決めるのはあなた。お祖父さん達のように、戦争で弾きたい音楽を弾けないってこともないんだし。羨ましい状況だって言うのはわかってるわね」
 いつの間に泣きやんだのか、ばあちゃんがやってきた。
「続けるよ。せっかくの七光りだもの。利用しない手はないし」
 呆れ顔の隆志をよそに、純子ばあちゃんはくすりと笑った。
「そうよ。七光だって、そもそも人並以上の才能がなきゃ、けなされやしないんだから」
 俺の入れてやった紅茶を飲みながら、ばあちゃんはいう。
 俺は深く頷いた。
 俺にマスターのような執念はないけれど、俺なりの想いを込めてタクトを振ってみたいそんな気がしていた。
 俺はすっかり暮れた空に、宝石みたく舞い落ちる雪の、銀色のリフレインを眺めていた。
 流した涙も気づかぬままに。

FIN

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