SFと科学の地平線

By HIT[1999.11.1]
 実は、私、SFファンです。科学とSFは両立しない、かというと、そんな事は全然なく、一戦級の科学者がSFを書いたりすることもままあるように、両立するどころか、切っても切れない関係にあります。

 しかし、私などの昔のSFファンとすると、現在のSF不遇時代は、信じられないです。文庫でも、SF作品は、ほとんど絶版になり、生き残っているのは、ファンタジー系のみ。市井には、SFとしか思えない小説も結構あるのですが、作家の思い入れか、出版社の都合か、SFとはうたわないものが多いですものね。

 これをSFの不振と見ることもできますが、実は、SFという概念は、拡散していろいろなものに転化していった、と見るべきなのかも知れません。

 SFの定義を仮に「科学の最先端を文学的に処理をしたもの」とします。科学の最先端が身近ではなかった昔には、SFには、センス・オブ・ワンダー(SOW)と夢が詰まっていました。しかし、現代においては、生活と科学の最先端がかなり近い位置にあります。遺伝子組み換え食品なんて、ほんとSFの中の話のようなものが、身近にあふれている。そうなると、SFファンがSFに求めていたSOWは、もう従来型のSF(これらは、現在では、単なる社会派小説となってしまう)にはなく、ファンタジーや時代小説のような、「遠い世界」にしか、存在しなくなってしまったのかも知れません。

 これらは、実は、科学全体の行き詰まり感が微妙に影響しているように思えるのです。

 かつて、19世紀から20世紀初頭にかけて、新しい科学が次々と生まれ、それにより、人類の知的水平線は、大幅に広がりました。この、未探検の大地を、SFは、文学という形で、分かりやすく大衆に提供し、支持を得ていました。しかし、近年、こうした新しい科学、原理の発見は目に見えて少なくなりましたし、また、発見されても、すぐに実用化(一般化)に結び付くようなものが多くなりました。未開の大地がほとんど無くなったのです。

 20世紀はまぎれもなく、科学の時代、それも物理の時代でしたが、この現代科学を支える「科学的実証主義」の仕組みが、そろそろ限界にきているのを感じます。大統一理論の検証のためには、アメリカの国家予算を上回る資金を投じて、巨大加速器を作らないといけない。ビッグバンを検証するためには、ビッグバンと同じほどのエネルギーを投じないといけない...。

 20世紀の科学をつき動かしてきた「物質はどこまで分解できるのか」「宇宙の果てはどうなっているのか」、「時間に始まりと終わりがあるのか」という人類の知的好奇心に、どうやら、物理は、そして近代的実証科学は答えを出すことができない、というのが分かってしまったのです。こうしたシラケムードが、SF作家やSFファンに伝わらない訳がありません。

 ここで、私、この件について、ものすごい慧眼だと思われる偉人を思い出しました。仏教の開祖、シャカ(ゴーダマ・シッダルタ)です。シャカは、答えがないので、考えてはいけない命題を3つ挙げております。「人は死んだらどうなるのか」、「この世(時間)に始まりと終わりはあるのか」、「この世(宇宙)の果てはどうなっているのか」の3つについては、考えてはいけない、と言い切っているのです。科学(人類の好奇心)の限界を踏まえた、なかなか鋭い指摘だと思いませんか。

 とはいえ、SFで人類の知的フロンティアにいることの快感を知ってしまったSFファンとしては、科学者達の「実は、これ以上のフロンティアは分からないのです。」といういい訳を聞いても、納得できるものではありません。勢い、他の科学的実証主義に捕われない世界にフロンティアを求めて行くのも仕方ない事かも知れません。

 科学も、21世紀には、素粒子や宇宙論といった、実証主義では手におえない分野は、新たな科学原理を求めて模索しております。

 こうした、現代科学の限界を鋭く描いた作品として、小松左京の『眠りと夢と旅』(文春文庫「アメリカの壁」収録。)があります。アンデスで発見された生きているミイラ(昔の神官)の話ですが、ミイラになりながら、宇宙の果てを精神旅行をしている神官に向かって、現代人が問いかけます。

「どんな原理で数百億光年先の宇宙を旅行することができるのですか。」
「私は夢を見ているだけだ。夢は誰でも見る。」
「でも、あなたの夢は、現実の宇宙そのものです。」
「現実の宇宙かどうかは私には関係ない。私の個人的な楽しみとして宇宙の夢を見ているだけだ。楽しみをじゃましないでくれ。」

 結局、科学というものは、この神官のいうとおり「個人的な楽しみ(=個人的好奇心)」に過ぎないものではないでしょうか。個人的な楽しみをいろいろ理屈をつけて人類全体の楽しみと置き換え、権威付けをしていますが、所詮は、そういう性質のものなのです。確かに、科学は、科学技術となって、人類の文明に大きく寄与してきましたが、これは、いわば科学の副作用というか、副次的なものであり、本来の科学は、そんな厳格なものではなく、個人的好奇心を満たすことができるものならば、何でも良かったはずなのです。

 今後、科学がどの方向に向かうのか、はっきりしません。実証主義を捨てて、新たな原理を見つけるのか、実証主義はあくまで堅持し、生物学等の分野にフロンティアを転進するのか...。

 元の科学がこうですから、SFが転進したり、拡散してしまうのも仕方ない事かも知れません。古くからのSFファンが求めている、昔ながらのSFは、現在にそのまま通用しないのです。SFファンも、ファンタジーなんか...と毛嫌いせず、ファンタジーなどの中にSFマインドを感じ取って、それこそ「知的好奇心の地平線」を広げていくことが重要な時代となっていると言えます。


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